昭和49年2月17日 朝の御理解
御理解第88節「昔から親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔を綺麗にするばかりではない、心に辛い悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして、家を治めよということである」
ね、嫁入りをする時に鏡を持たせる、それは、あぁ、顔を綺麗にするばかりではないと、ね、えぇ、そこで、えぇ、心に辛い悲しいと例えばそのいうところから、えぇ、この神意を、頂かしてもらうと、顔を美しくするばかりではない、心を美しくするために、親が鏡を持たしてやるのだと、いうことになります、ね、顔を綺麗にするばかりじゃない、心を綺麗にすることと、心が綺麗になれば、顔も、勿論にこやかに、優しく、それこそ美しく
なるでしょう、そういう言うならば、あぁ、心で、言うなら大きな豊かな美しい心で、家を治めよということである。
様々な、あぁ、難儀な事に直面いたします、またもう人それぞれの性格がございますから、(?)、こっ、ここんところを私はだから、必ずしも嫁入りの時の、という、その娘やら嫁さんに対する、だけではなくて、これはあの金光教、信心さして頂く者、男も女も、老いも若きも全部がここを頂かなきゃならんとこだとこう思うですね、ね、心を美しゅうする、だから私共がなら教えなら教えを頂くということその教えを、一つ鏡と思うて、ね、教えをいっつも、心に頂いて、日々の生活をして行け、心が段々綺麗に美しゅうなり、豊かに大きゅうなってくると、ね、言うならば、えぇ、にごやっ、にこやかなと言うか、ね、えぇ、いわゆる和賀心が形の上にも、現れてくるような、おかげを頂いて、家を治めよということになり、言うなら、国を治めよということにも、言わばなってくるわけです、ですから、一番低いな例をとるといわゆるその、嫁子に行く時に鏡を親が持たしてやるのは顔を綺麗にするばかりじゃないぞと、ね、いわゆる心を綺麗にするためぞと、ね。
腹の座った人で(?)、辛抱強い人、おぉ辛抱のおぉ、の力のない人、色々あります、はぁあちらはなかなか根性がしっかりしてあったら、もう決してそれこそ、もう顔に、ああいう難儀な中にあっても顔にでんなしなさらん、というような人がやっぱありますよね、信心はなかってもなかなか心が出けちゃる、ね、あの人はもう喜怒哀楽が激しい、もう嬉しい時にはこう嬉しかごたる(?)、もう苦しい時には、もう、本当に、言うならば、あぁ、喜怒哀楽(?)が激しい、というようななら人もあるわけです、ね、けれども私は、もう撫でて、どういう人でもです、ね、心を美しゅうするための教えがあるんだと、鏡は心を美しゅうするために、あるんだということが分からして頂いたらです、ね、まあ、いつも、にこやかとばっかりはいかんにいたしましてもです、ね、言うならば、信心辛抱が出来る、おかげが頂ける、また、頂けよということだと思うです。
そこで、私はその思うんですけれども、ん~、そういう、う~、和賀心の顔、言うなら愛の顔、ね、愛の心と、本当に大変、えぇ親切な人があります、これはやはりその人の持っておる、愛がそのようにして親切ということで、表現されるわけであります、ね、それが、ただ、生まれつき親切な人、というだけでは大したことはないと思うです、その愛の心というものが、それは小さい愛であって、ね、私共が信心をさせて頂くことによって、大愛に目覚める、ね、神様がお使いになるような、愛の心というものが、まあ(?)な時ではあっても、それが段々出けてくるようになる、そういう、私は愛でなからなければいけないと思う。
昨夜、遅うここへ出てまいり、まいて、遅うと言えば、あぁあの休ませて頂く時、そこから最後の礼をさして頂きます時に、これは私はもう、あの五つの願いが、合楽で言われるようになってからは、もう本当柏手して、あの、まあ、今から善導寺に、親教会にお参りさして頂きますと、道中のことをこう願いますよね、もうそういう、行きがけに簡単に、もう言うならば、あの、ちょっとの間にお礼をさして頂くでもです、これはなら、あぁ布団の中で、えぇ枕に手をおいて、今から休ませて頂きますという御祈念をさして頂く時でも、そうです、もう必ずもう五つの願いだけは、必ずいたします、心がイライラしとりましたらもう五つの願いが順序を間違えていたしまし、そすとあの~、その、スムーズにすーっと私の心の中に五つの願いが出来るまでは何回も繰り帰し願います、皆さんどうでしょうかね五つの願いが、もうこれは御神前に、言うならば、あの、これは御神前に向かっておるいつも、いつもかつもが自分の心の中にこの願いがなからにゃいけんと(?)、ね、もうどんなに言うならば、あぁ、簡単なお礼をさして頂く時でも、拍手打って神様に心を向けた時には、必ずその最後に五つの願いを、もう、これは例えば、あの、もう口癖のようになっておりましてもです、心が、例えば穏やかでなかったり乱れておりますと、その順序を間違えたり、五つの願いを申し上げておるあいっ、間に、他の事が入ってきたりいたします、そういう時にはもう、あの私は、また言うなら自分の心を振り直して、頭を振り直してから、またそれがスムーズにすーっとあがるまでは、どんな簡単な御祈念をする時でも、これだけはだから日にもう、それこそ何十回という、ことが私の心の中にこれは願われることでございます、寝るに休ませて頂く前ですから、まあ言うなら簡単に、そのことを、何時も私はその思うたです、もうこれはもういつでも、どんな場合でもこうやってさせて頂きよるが、これは、あぁ、ちった自分の我が入って行きよるのじゃないだろうかと思いました、ね、本当に一つ間違えますと、(?)を我で、我になります、ね、そしたら、神様から、ね、大我ということを頂きました、我は我であっても大我、ね、我を捨てる我を捨てるということはね、捨ててしまうということじゃないのです、その我が、言うなら純粋な高度な大きな我に変わって行くことなんです、これが私共が生きとる間は、この我というものの、言うならば、成長を願うことなのです、ね、そこでです、ね、なら、その愛ということにおいても、小愛があり、大愛があるということが分かります、ね、ただ生まれつき親切な人が、人に親切を施すというのは、これはもう小愛です、ね、小愛がいけないのじゃありません、ね、けれども、それが大愛に育って行かなければなりません、ね、だからその大愛の中にはです、先日からも申しますように、それこそ、人から、まあ第三者が見たならば、どうして冷たい人であろうかというような、冷たい心と燃えるようなその、おぉ心とが、二つが心の中に、同居して行く、育って行くのです、ね、小我といい、大我といい、同じであります、私共はその小我のために、信心をさせてもらった、御神縁を頂いたという人がまずほとんどであります、ただ商売が繁盛いたしますように、どうぞ病気が治りますように、家庭が円満に行きますようにとありとあらゆる難儀の、それをです、ただ自分の手元のところでです、ね、自分という者が中心で願っておるのです、これは小我の願いです、それでも信心が三年五年そして十年とこう続いて行くうちに、その小さい我がです、大きな我に変わっていくのです、私が願うところのです、なら、その大我、ね、どうぞ体の丈夫のこと、家庭に不和のなきこと、子孫繁盛家繁盛のこと、ね、真実の御用が出来ますことのために、どうぞ神願成就、私の大願というのはです、ね、大きな願いとこう言うならばです、ね、神様の、まあ言うなら、悲しいまでの願いと、ね、人の上に世の中の上に、かけておいでられるであろう、その願いを願いとして、お役に立ちたいお役に立ちたいという一念を燃やすということなんです、ですから、体の丈夫のことも、ね、家庭が平和であるということも、いよいよ子孫繁盛家繁盛のおかげを頂くということもです、ね、内容がいよいよ御用になってくる、ね、内容がいよいよ仕事になってくる、仕事と言うことは、自分のその事に仕えるという心なんです、働くと言うても、いよいよ自分の働きというものが、(神恩?)にもはたが楽になって行くことのための、働きなのです、私だけが、私の一家だけのために、という間はそれは、小我でありましょう、同じ、言葉は同じでありましても、けれども私がなら、朝晩じゃないもう、御神前に、心むっ、拍手して向かったら最後です、どういう事は願わないにいたしましても、これだけは繰り返し願うということ、それを神様は、それは、ね、我ではない、いや我は我でも、大我だと、ね、世のために人のため、と言うよりももっともっと、天地の親神様のお心に、沿わせて頂く事のための、願いである、ね。
昨日ある方が、お礼お届をいたしております、もう一年ぐらい前からもう、自分の今勤めておる会社がもう嫌で嫌でたまらん人があった、もう来るたんべんに、自分がその事を願う、あ~、母親が毎日参ってきますから、母親に、「どうか他ん所に変わりたい」してもう親先生任せでまいった会社だから、親先生にお伺いをしてお許しを頂かなければいかないということを考えておりますからね、その「どうかどこかと変わるようにそのお願いをしてくれ」とこう言うわけです、親も願い子供も、おぉ、(?)願うけれども、まあこれが辛抱のしどころじゃ、さあもう一辛抱もう一辛抱、ね、そして時期が来るまで待てと、それがまあ一年前でした、ところが、世の中がこういう風に、様々な(?)が、なくなったり、大変、その値段のものが少なくなったために、えぇ、値が上がったりするような、あぁ、この時世になりました、昨日来てからそのお礼のお届の中にですね、今その勤めておる、その、会社の、その、おぉ製品と言うか、いうものがもう今、もう引っ張りだこの物で、だからもうそれこそ、まあその人の言葉を借りるともうとにかく最近の、自分の会社はぼろ儲けだとこう言うんです、そこでもうちくそりゃ、沢山な税金も納めなければならないそうですけれども、いや税金取られるごとあるならば、社員の給料を、うんと高くしよう、(?)を高く出そうということになっておる、「親先生の言われる通りにさせて頂いておかげで」と言うわけなんです、もう話を聞いたら本当にそうなんです、ね、それこそ人がうらやむような、その、その言うなら、まあ、悪い言葉ですけども、ぼろ儲けしっ、するような、会社が、その、おぉ、とにかく、う~、もう白が赤になるほどに、変わってきたわけです、っ親先生任せになっておったおかげでということになった、ね、だからそういう例えばうんなら、おかげということがです、ね、小愛を捨て、大愛に生きる、小我を捨てて、大我に生きれれる、信心内容、生活内容ということが、出来てまいります時に、そのおかげがおかげを生んで行きましょう、ね、ところがこれが小我であり、大我であったとしたらです、ね、こりゃおかげで儲かった、おかげで、え~辞めんでおって良かったと、言うだけでです、ね、返ってそのために信心がおろそかになったり、ね、今までしなかった贅沢をするようになったり、それは小我だから、小愛だからなのです、もう得てしてです、例えば小さい願い、しかも、小さい願いというのは、もう、人間の、おぉ、何て言うかね、浅はかな、言うならば、あぁ小我のために信心、ただ自分の事が成就するために信心をする、それが成就すっ、すると、はぁもうおかげおかげと言うておりますけども、その頂いたおかげが信心の、言うならば、追求とも申しましょうか、ね、いよいよ信心を限りなく、進めて行こうというような、ことにならない、ね、そういうおかげでは、例えば有り難かってもです、ね、次の信心の火がつかない、信心がいよいよ楽しいもの、有り難いものになってこない、願いを(変える?)、ね。
一心の真を持って、どうでもという、迫力を持って、願わせて頂く、神様が、おかげを下さる、そのおかげが、いよいよ、大きなおかげの元になるような、おかげ、にならなければいけない、ね、それこそ一心の真を持って、それこそどうでもという迫力を持って願った、おかげで成就した、そしたら信心がやれやれというようなことになるようなことではです、ね、神様に対しても相済まん、自分としても、それではいけないのですから、ね、私共の願いの焦点というものをです、ね、こうして、一心の真を持って本気で願わして頂いておりますが、ね、それも、やはり神様のお心に応えさせて頂きたいばっかりにそれを願っておるんだという、願いに変えられる時です、頂いたおかげのためにまたおかげを落すといったようなことはなかろうと思う、またそういう願いを持っておるからこそです、人に悪い顔などを見せ、見せられない、悲しいからって言うて悲しい顔を見せられない、ね、言わば、それが反対に元気が出る、返ってそれがこっ、心嬉しゅうなる、それが返って有り難くなる、ね、それは私は大きな願いを持たなければ、出来ないと思うのです。 もうこの歳になってそげな大きな事願わんで、というても、おぉその、まあ年取った人が、まあ思うといたしましょうか、ね、それは私は間違いだと思う、年を取れば取るほどそれこそ、ね、それこそ御祈念がかり、と言うても良いぐらいですから、もうそれこそ、御祈念を仕事のようにしとっても良いのですから、ね、そのせっかくの御祈念がです、なるほど、ね、家庭の事も願わんならん、健康の事も願わにゃならん、親の代子の代という子孫繁盛も願わにゃならん、ね、けれどもその、願う、その、おかげを頂かせて頂いてもその後の、後の願いが違う、目的が違う、ね、そういう事になってくる時にです、私は鏡は顔を綺麗にするばかりではない、ね、言わば、鏡は、を見て、人に悪い顔とか悲しい顔を見せんようにして、家を治めるとこう、言われるが、ね、なるほどそれは、あぁ、辛抱強い、いぃ、人に、え~、まあ、自分の赤裸々な姿を見せないで、事もそれは有り難いですけれども、ね、もう根本のところからです、そういう悲しいとか苦しい、もと信心がなかったらそうであろうけれども、信心をさして頂くようになり、教えを鏡にさして頂くようにならして頂いたら、ね、それは返って元気の元になり、いよいよ有り難い、ね、それによっていよいよ、豊に大きくならせて頂けることを、楽しみの信心、ということになる、そういう信心になるためには、皆さん願いを、もっともっと高度な、小愛から大愛、小我から大我に移らせて頂けれる信心を、目指さなければ、出来ないことである。
家を治めるということを、いつもここの御理解を頂く時に、頂きますよね、治めるという字は、さんずいに、ム口と書いてある、ね、さんずいということは、言うなら自然に起きて来る様々な問題、ね、その例えばどのような問題であっても、ね、黙って治めるということ、だから黙って治められるだけの、心というものがです、心が寛大でなからなければならない、ためには私共が寛大な、願いというものを立てておかなければならない、ね、そこに問題が問題じゃないほどしのおかげが受けられるのです、一つの事に、例えば、行き詰まって、ね、頭が重いという時に、思うてみるがいい、自分の信心の、言わば小ささ、自分はこうして一生懸命信心しよるけれども、小我のための信心だ、ね、そこで言わば大我を持っての願いにならしてもらえる、信心をそういう時に気付かしてもらって、ね、どういう信心を、これからさして頂くことが、神様はお喜び頂けるかという、神様がお喜び頂けれる信心へ、方向を変えて行く、ね、そこから、大愛が分かる、大我の内容が分かってくる、ね、そこには、例えば、期せずして、家も治まってくる、問題が問題じゃなくなってくる、おかげに繋がるのであります、ね、皆さんが持っておる様々な願い、例えばなら、今、あぁ、受験(?)ですから、ね、高校大学、受験が、あぁ、どうにでも合格のおかげを頂きますように、一生懸命願わなきゃなりません、ね、けれどもです、そのなら学校なら学校に、入学が出来る、というおかげを頂いたらです、その出来た学問、その出来たその勉強によってです、ね、ただ自分が立身出身のためだけのことではなくて、世のお役にも立たせて頂くことのために、言うならば、高校の入学もまたは、大学の受験もです、ね、そのためにどうでも合格さして下さいということになってくると、願いが大きいことになってくる、商売人が、どうでも儲けさして下さいと、当然のことです、ね、けれどもその儲けさして下さいということがです、大きな大我のための儲かりでなからなければです、ね、もう本当に合楽でも、随分おかげを頂いてです、とにかくその、何かが一つ一つ成就そて、ただこう繁盛したり、忙しなったり、するとですね、忙しなったりするから信心の方が疎かにする、いかに(?)の祈り、願いというものが、ね、小我の願いであったかということを感じます、ね、ですから大きな願いを立てさして頂いてです、世のお役に立つ事のために五つの願いも願わせて頂き、言うならば、ね、学校の言わば、入試のことでもです、ね、大きな願い大きな目的のために、どうぞおかげを頂かして下さいということになってくる時に、私は小我が大我、の内容になってくると思うです、ね、そういう願いを私共がなかなか、あぁ、スッキリとというわけにはいかんけれども、やはり稽古させて頂かにゃいけません。
最近そういうような、事になりましたらですね、願いが非常に身近なものに、になってきたし、願いが身近な事からまず願うことになってきた、ね、家族の事とか、あぁ、自分の事なんか願うたことがなかといったような時代もありましたけれども、もうまずは自分自身がおかげ頂かにゃならん、家族中の者が、本当に信心の手本になるようなおかげを頂かなきゃならん、自分の身近な、言うならば、あぁ、信心を頂いておる人達の上に、ね、合楽教会の上に、もう合楽教会の、もうこのことがもう願いの大半である最近は、そういう風に変わってきた、ね、そして言うなら、教団の事も願うし、ね日本国中の事も願うし、世界中の事も願うし、ね、世界総人類の上の事も、願わして、勿論頂きます、それこそ、世界総氏子の身の上安全も願うと同時に、世界総氏子の生命の上の事までも願う、けれども一番力を入れて願う事は、私自身の事であり、私の家族の事であり、私に縁を頂いておる、信者氏子の皆さんの事である、ね、それがただ合楽教会大発展ということのためではなくてです、合楽教会の大発展のおかげを頂いて、真の信心を頂くそれが沢山出けて、世のお役に立つ信者が沢山出来るということは、そのまま、天地の親神様の願いが成就する事に、直結するから、それが願わなければおられんということになってまいりました、ね、その辺がおかげを頂いて、大変こうスッキリしてきたように思います、ね、だからもう自分の身辺のことが、本当に願われる、ね、それがなら、小愛で願い、小我で願ったんではです、値打ちがない、ね、大愛で、ね、言うならば大我を持っての、願いである時にです、ね、天地の親神様も、また感動して下さるような、おかげに繋がってくることを、私は今信じております、そういう信心をさして頂くから、修行が大変楽になってまいりました、ね、楽しゅうなってきました、いよいよ有り難いものになってまいりました、そういうおかげを頂かせて頂くことのためだからです、ね、お互いの信心も、どうでもこうでもと、例えば一心の真を持って本当に願わして頂く、熱意を持って願わせて頂いて、おるのですから、願いの焦点というものがです、ね、小我小愛のためのそれであっては、惜しい事になります。
どうぞ。
入力者:誠輝